漂うということ

所謂メンタル的な問題から休職→退職に至り、山あり谷ありの療養生活も一年を過ぎてしまったのだが、ここに来て「パワーが出ない」としか言えない状態が続いている。

bonobosの蔡さんのツイートに端を発した一連の話題に関して、VOLA&THE ORIENTAL MACHINEのバンドとしての対応にすごく残念な思いを抱いたので、自分でも存在を忘れがちなこのブログにそれをしたためようと思ったのだが、失望や怒りをまとめるだけの気力というものが、ブログ作成の画面に向かった瞬間に一気に霧散してしまった。

先日、母方の祖母が亡くなった。祖母はお正月に我が家に泊まりに来たばかりだった。数か月前に胃を悪くして病院に行くということはあったが、特にそれも入院等の必要がないという診断だった。祖母は一人暮らしで、母は毎週のように祖母の家に通っていた。

祖母が亡くなったのは自宅だった。見つかったのは、亡くなってから四、五日経ってのことだった。家の鍵が開かないという異変に気付いた叔母がセキュリティサービス業者を呼ぶまで、祖母の死んだ体は、寒さと暖かさが交互に来る二月の日夜を、一人で過ごしていた。

鑑識の結果、事件性はなく病による突然死ということだった。年齢も年齢なので何があってもおかしくないとは知っていたけれども、むごすぎる。人の人生がこんなにあっけなく、さみしい在り方で終わってしまうのか。ニュースで日々目にするような悲しい出来事が、一か月半前に会ったばかりの祖母のもとに起きた。よく食べるからまだまだ元気だね、なんて私たちが笑っていた祖母のもとに。

日常は驚くほど変わらず流れていく。葬儀の前も、後も、自分は特別なことは何もしていない。だけど、何か能動的に自分が楽しめることをしよう、と考えても、考えるだけで行動に移すことがあまりできなくなってしまった。そのパワーがない、と茫然と手を引っ込めるようになった。

自分は特におばあちゃん子というわけでもなかったし、この一件と自分の今の状態の因果関係は薄いのかもしれない。ただふと、日常を今まで通り送ることに多くのエネルギーを費やしていると自分で感じることがたびたびあった。

むごい現実を前にして、その事実を咀嚼している毎日なのかもしれない、と二週間に一度通うカウンセリングで臨床心理士の人が話していた。それは今まで、「未来のために今動かなきゃいけない」と焦り続けてきた私にとって、必要な「立ち止まる」「漂う」時間なのだと。今の自分は、これまでおざなりにしていた「漂う」時間を取り戻しているのだと言い聞かせて、「〇〇しなければいけない」と考えることを放棄しているが、同時に、一体どこに辿り着くんだろうと立ち尽くしてしまう。このまま溺れてしまいそうになったら、何を掴めばいいんだろう。