春の中で

昔から春がすごく苦手だ。一年の季節の中で、荒涼とした冬から陽光にあふれる春は、最もグラデーションの濃淡が強い。急激な変化についていけないし、春は日本ではあらゆることのスタートとなる季節で、誰も彼もが腰を据えていない空気が流れる。その中で、自分もどこに根付くべきなのか分からなくなってしまう。生暖かい空気の中、ふらふらとさまよっている感覚が気持ち悪い。
認知行動療法をおこなっていく中で、物事に0か100かを求める「白黒思考」、他人や自分に固定された思考を求める「『べき』」思考が、考え方の癖として自分に強く根を張っていることに気付かされた。
気付かされたのだが、自らを療養にまで追い込んだその癖からまだ脱却できていない。なぜなら、その信念をもって人生を進むことで、やっと大学に進学できて就職できたという実感があるからだ。ありのままの自分では社会に受けいられようのない人間だというセルフイメージが強く、そのスキーマを原動力としてなんとか周りに歩調を合わせていこうとしてきた。人間の価値は生まれながらに発生するのではなく、社会に生きる中で行動が承認されていく過程で生まれていくのだと、本気で信じていた。
先日私が書いたアヒトさんに関する記事に、自分を貫き通すというのは自分がやればいいことで、誰かに仮託したりそうしない人を責めるものではない、という内容の声が届いた。このケースに関しての是非はさておいて(いつかまた書きたいと思っています)、自分の他人に対する在り方を見抜かれて痛いところを突かれたように思えた。
普段は意識していないのだが、他人にも自分にも整合性を強く求めるきらいがある。他人との間に不和が生じて、毎回そこでやっと気づく。自分が自分に整合性を求めて振る舞って、そのときどきの環境に適応してきたのだと思う。それが他人も同じなんだと信じて、他人もそうするべきなんだと思い込んで、それを相手に求めていたら、関係に不協和音が響くのは簡単な話だ。

先日、戸田真琴さんによるこの文章が大きな反響を呼んだ。

SNSで死なないで|戸田真琴|note(ノート) https://note.mu/toda_makoto/n/n71be988f6b05

私もこの言葉たちの響きに胸を打たれた。でも、「特別な」人に「特別でなくてもいい」と呼びかけられ、それが拡散される世間は、「特別な人」に価値を見出す世間と、構造として何ひとつ変わってはいないんじゃないかと思えてならなかった。
自分は特別ではないと劣等感を覚えていて、同時にこの文章に賞賛を寄せるほかの人々の中に、そうした図式に思いを寄せる人はいないんだろうか。自分の姿勢や思考の矛盾に。と、ぼんやり考えていて気づいたのだが、この発想も白黒思考、べき思考に基づいたものなのだ。大半の人にとって、自分の姿勢の矛盾なんてどうでもいいことなんだ。あと、賞賛する人達の間でもさまざまな感情のグラデーションがあるのに。
この考え方の癖、スキーマで突き進んだ末にたどり着いたのは、無職で社会に能動的に参画しない、何色でもない、世間の中でぼんやりと漂うだけの人間だ。なんという皮肉なんだろう。なんて整合性の取れてない存在なんだろう。
「~すべき」と考えなくていいから、と周りに何度も念を押されるように呼びかけられても、しっかりとその目を見て頷くことができていない。もしあなたの家にある家具の裏にひっそりと花が咲いて、知らぬうちに枯れていくとする。その色は何だったのか、美しかったのかそうでないのか、咲いて良かったのかそうでないのか、あなたは判断することはできますか。