あちら側の音楽(2016年末作成)

これは2016年末に書いた文章で、なんだか恥ずかしくてずっと下書き保存をしたままだった。この文章に挙げているような音楽は今はあまり聴いていないし(クリピも今そんなに好きじゃない)、作為的な文体があれだなーと思うんだけど、内容は2年越しでしっくり来るところがあったのでサルベージしてみます。

 

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BES『UNTITLED』(全編を通してAlexandra Mizukiによるトラックが冴えていた。なおかつ聴きやすい。ロックファンにも聴いてほしい。)がとても良かった。個人的2016年ベストアルバムかもしれない。

 

上記の動画にある、このアルバムの紹介文を引用。

逮捕寸前の極限の肉体/精神状態、ヒリヒリとした緊張感が詰まったBESのラップ。それに呼応するようにBESの盟友達が完全サポートしたソロアルバム。

緊張感だけでなく、抗いきれない運命に巻き込まれずにはいられない人間の悲哀にも満ちていた。収録曲「Back In The Day」の終盤で、「まあ、こうやって下向いてもしょうがないから上向いた方がいいと思います、でも下向く時もあるよね」と早口でまくしたてる言葉が聞こえる。自分に言い聞かせているようだけど、今更上を向いたって変わる訳がない闇が、ぱっくりと口を開けて待っていることが痛切に伝わってくる。

 

音楽と自分語りを絡めることは良い作法とは思わないのだけれど、ここは自分のブログなので、そこに甘えていこうと思う。

堂々とお天道様に顔向けできる人間が住む世界を「こちら側」として、お天道様に顔向けできない人間の世界を「あちら側」とするなら、自分は「あちら側」の住人である、という自意識を十代の始めの頃から持っている。

その境界線はとても乱暴に、雑に引かれたものだ。本当は、そんな単純に世界というものが成り立っていないのは、自分でも重々承知している。だけど、境界線は確実に存在している。私はその境界線の「あちら側」にいる。絶対に「こちら側」に行くことはできない。

念のために言うと、私自身がその境界線から大きく外れた人生を歩んだということではない。むしろ、これ以上「あちら側」に引きずり込まれないように人一倍神経を過敏にしていると思う。

こんな回りくどい言い方をするのは本意ではないが、どうか許してほしい。

ごく稀に「勝ち組だよね」と言われると、一瞬言葉を失う。そんなの冗談じゃない。私の人生のステージは「マイナス」から始まっている。どうにかせめて「ゼロ」の地点にいられるように、これからますます「マイナス」へと傾くことのないように、一日たりとも忘れず、毎秒気を張り詰めているのに。決してこの先の人生が「プラス」にならないことが分かり切っているけれども、他の人たちと同じステージに立っている振りを全力でしているだけだ。でも、そんなことを話すことは許されないから、「なんでそう思ったの?」と問い返すことが精いっぱいだ。

ちなみに、その原因となったのはR-指定が言うところの「心のゲットー」とかそういう抽象的なものではなく、具体的な出来事だ。

 

音楽の話題に戻る。私が言うまでもなく、ヒップホップ、ラップで語られる内容はお天道様に向けて堂々と叫べないものが多い。そこには「あちら側」の人間が多くいる。

日本語ラップでも、いわゆるギャングスタ(死語?)寄りのものを好んで聴くようになった。下の記事で紹介されているものや、それに近いものだ。冒頭に書いたBESも、ここで紹介されている。

闇社会の悲哀をリリックにのせる "ハスラー・ラップ"という哀歌|サイゾーpremium

偽悪的にウィードだのクラックだの言うことを肯定している訳ではない。不良自慢のようなリリックは一笑に付すに値するだろう。だけれども時に、望んでいない人生に巻き込まれ、どうにかステージを『ゼロ』に戻そうとする人間の闘争の匂いを感じると、この上なく心が安らいでしまう。

Creepy Nuts(本文中では下げているような扱いになってしまいましたが、CDを買いライブに足を運びメルマガを購読する程度には好きです。)の「合法的トビ方ノススメ」という曲がある。露悪的なヒップホップシーンに異議を申し立てる意図も感じられる曲だ。ウィードウィード言えばいいと思っているようなラップにうんざりしていた私は、聴いた時に胸がすくような思いがした。だけれども、一方でこうも思うのだ。

これは、わざわざ「非合法的トビ方」をしなくても良かった、する必要がなかった側の人の曲だ。

無駄に対立軸を作って煽りたい訳ではない。だが「非合法的トビ方」に溺れる人たちは、本当にそれを望んでいるのだろうか、と考えるのである。彼らのやり方は決して肯定できないが、すぐそばに「合法的トビ方」があるのに満足できなかったのはなぜなのか。「あちら側」にいる彼らは、その境界線をどうして踏み外したのか。

「あちら側」にいる人たちの曲を聴くと、人に話すことのできない思いを共有しているような安らぎを抱く。「マイナス」のステージをせめて「ゼロ」に保つ、そしていつかは「プラス」に、と夢想する彼らの思いは、誰が責められようか。青臭い言葉だけれども、「『あちら側』でもがいているのは自分だけではない」と束の間の安穏を得ることができるのだ。

ロックとは何かとか、ヒップホップとは何かとか、そういった議論は言葉遊びに過ぎないように思えて、昔から興味が持てない。だけど少なくとも言えるのは、ヒップホップを用いて語る人間の、抗いきれない人生の渦に溺れながらも抜け出そうともがいている姿勢に、自分は惹かれるということだ。

 

2016年に発表された般若のアルバム『グランドスラム』に、「月の真ん中」という曲がある。この曲をコンビニの中でイヤホンを通して初めて聴いた時、涙を押さえるのに必死になってしまった。いま般若に対しては色々な見方があるだろうが、私はこの言葉に対して斜に構えることはできなかった。

般若を「あちら側」の人とするのはふさわしくないし、そう定義するつもりもないのだが、自分の心境に一番寄り添った言葉なので、勝手ながらこの曲のリリックの引用で締めたいと思う。

色々想像した 両親がちゃんと居る事や お金に困らない そんな日が来る事とか

色々想像した 信頼出来る友達や 月並みな言葉だけれど 幸せになりたいとか 

 (般若「月の真ん中」より)

 

グランドスラム

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月の真ん中

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