教師の「熱意」に期待することへの限界

万引きしていたと誤解されて進路指導を受け、中3男子生徒が自殺した事件のことを毎日考えている。命が失われてしまったらどうしようもない。心からやりきれない。子供が自殺する社会は容認できない。

学校の対応は言うまでもなく理解に苦しむものではあるけれども、この学校の姿勢を非難しているだけでは何も変わらない。どこの学校にも起こりうることだ。どの教師にとっても、「明日は我が身」だ。

大抵どこの学校も、世間からの過剰な期待にこれ以上応えるキャパシティはないと思う。学校や教師の意識が、世間の感覚から乖離していてもいいのだと言いたい訳ではない。自身のキャパシティを超える量の要求に応えようとすると、人為的ミスは不可避なものとなる。現時点ですでに、学校現場はギリギリのバランスで「なんとか運営されている」。

教師の多忙さに関しては、昨今様々な報道がされているので今更指摘するまでもないと思っていたが、今回の事件を語るに当たり、その観点から論じた意見を見かけないのを不思議に感じている。

日本の教師は、生活指導も学習指導も同じ水準で行うことが要求されている。問題行動に日常的に対応する学校では、いわば生徒の生活ケアをメイン業務とすると同時に、授業やテストを行う。どちらも充実させるのであれば、それぞれの専門分野を仕事とする者が別々に行う形が自然であるが、日本の教師にはどちらも(そして、部活動指導やその他の雑務も)こなすことが求められている。

今回の事件の学校では、万引き事件が起こった日に教師への校内暴力が発生し、その対応に追われて、後に男子生徒の自殺原因となったミスが生まれてしまったという。

万引き事件にもリソースを割いていれば、ミスは防げた可能性があるということだ。限られた人材でも対応するのが教師だという声もあるだろうが、重大な問題行動には、生徒指導担当、担任、学年主任は勿論のこと、教頭や校長といった上層部も動かざるを得ない。刑事事件となる重大な問題行動が複数同時に発生した場合、現場はかなりの混乱に見舞われるのが実情であろう。それでも、授業等の通常業務は止めることはできない。

学校側のミスは擁護できないが、人為的ミスが生じやすい状況なのは、誰の目にも明らかだ。

学校教師の仕事は学習指導のみになる、といった将来は日本には訪れないかもしれない。学習指導と生活指導は表裏一体であるという見方もあるからだ。しかし、生徒の問題行動に関しては地域に協力を要請する、 専門家を派遣する等、少しずつ現場を整備し、教師の仕事量を軽減することはできるはずだ。

もうこれ以上、教師の「熱意」に依存するのは現実的ではない。教師の重労働のしわ寄せは、確実に生徒に向かう。不幸にも、この事件が証明してしまった。

今回の事件の解明が進み、教師バッシングに終始するのではなく、環境そのものを視野に入れて改善する包括的な動きに向かうよう願っています(正直あまり、期待もできないけど)。